大塚則行命
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殉国烈士の碑の竣工除幕式祝辞
昭和47年に現合志市出身の所謂戦犯大塚則行命の慰霊乃碑(仏教寺境内)建設に当りての除幕式の合志町長の祝辞です。
大塚則行命
陸軍少尉
第102師団 比島戸塚部隊(独立歩兵170大隊)
昭和22年3月31日 比島マニラに於いて所謂戦犯として絞首刑
本日ここに故陸軍少尉大塚則行烈士の慰霊祭の除幕式が挙行されるに当り、謹んで一言ご挨拶を申し上げます。
大塚さんは明治42年3月27日、合志町大字豊岡1212番地、原口部落の故青木富次・ヤスの二男として生まれ、幼少より質実剛健、俊英の誉れ高く、豊岡小学校から熊農に学び警察官であった父君の勧めもあって軍人をこころざし、昭和2年に若干18歳で軍籍の人となり台湾時代に本町福原出身の大塚ミ寿さんの養子として今は未亡人の奥さん初子さんと共に入籍し台湾で大塚姓となっています。
大塚さんは軍籍にあること20年、台湾時代には初年兵の教育に欠くことのできない人材として活躍し、第二次世界大戦の大東亜戦争においては比島作戦に従軍し、侵攻作戦にあるいは現地住民の宣撫活動に参加し卓越したその活躍ぶりは従軍報道員として派遣されていた作家の尾崎士郎、石坂洋次郎、今日出海、火野葦平等の諸作家の知遇を受け、これ等作家の作品に作中人物のモデルに取り上げられるなど、生来の質実剛健の性格に加えて清廉潔白、人情に厚く、文才に長け部下思いで上官にへつらわず生き抜いた古武士的な軍人として大塚さんを知る多くの人達から偉大なる人物として尊敬されていたと聞いております。
顧みれば、わが日本民族が大東亜共栄圏八紘一宇の悲願をかけた大御戦も凄絶悲惨な終末を迎え、わが国の無条件降伏によって終りを遂げ数多くの有為の士が勝者の裁きを受け刑場の露と消えたのでありますが、大塚さんもその一人として部下の責め、上官の罪も一身に引き受け従容として勝者の裁きに伏し、昭和22年3月31日、莞爾として異郷の地フィリピンの野の果てに戦犯という名の処刑により38年の生涯を最期として一発の銃声と共に散華されたのであります。
星うつり月変わり歳月がながれてここに二十有余年、このたび熊本市の永田さんの主唱により旧部下の人たちをはじめ上官知友の士が相集り30年あるいは40年昔の月日の隔たりもなく大塚さんの偉大なる人物を尊敬し、慕い集る者一丸となって慰霊碑の碑建立が発願され本日めでたく除幕式を迎え改めて大塚さんの人物を偲ぶとき、今日の日本オ平和の尊さ有難さを身の引き締まる思いで感ずるものであります。それにつけても、かくも多くの人々から尊敬され愛され、そして死後久しくなお慕われている大塚さんを生んだ郷土合志町の長として大塚さんの遺跡が郷土の誇りとして心ある人々の敬仰の的となり永遠に語り継がれるものと信じて疑いません。
時あたかも去る9月29日、日中の国交正常化が実現しアジアの緊張緩和、平和安定に大きく前進した今日、大塚さんの在天の霊も大いに冥するところあろうかと存じます。
いささか所感を述べましてこの慰霊碑の建立に参加されました多くの人々に深甚成る敬意の念を表しご挨拶といたします。
昭和47年10月7日
合志町長 渡辺直弘