境内の慰霊碑などを紹介したいと思います。
飛地境内地「花岡山招魂社」
花岡山に明治2年2月創祀。幕末明治維新以来の殉国烈士の霊を篤く祭祀すべく祠宇を建立し、宮部鼎蔵命をはじめ150柱を斎祀したのを起源とする。境内向かって右側に桜、左側に招魂の木が植えられている。これは当時のままである。熊本市横手2丁目921番地。毎年12月30日午後2時、例祭斎行。
「行幸啓記念之碑」
昭和35年10月24日 天皇皇后両陛下御親拝
昭和37年5月12日 皇太子殿下妃殿下御参拝
昭和50年8月7日 常陸宮殿下妃殿下御参拝
の記念碑です。
「さざれ石」
君が代は千代に八千代に細石の巖と成りて苔の生すまで
国歌に歌われたこの「さざれ石」は熊本県山鹿市の北方に聳え直立している不動岩の欠片であって、山鹿市遺族連合会の計らいで当神社に奉納されたものであります。
不動岩はさざれ石で形造られていて、下部のは苔まで生えて国歌の歌詞その儘であります。
日本列島の形が出来ていない約一億年も昔、白亜紀の中世代、不動岩の周辺は海に囲まれて、その周囲の「変斑礪岩(へんはんれいがん)」が気の遠くなるような歳月をかけて風化し、崩れて海に流され海水に洗われ、丸い小石や砂になり、さらにそのさざれ石が海底に厚く積み重なって強い圧力を受け、又、気の遠くなるような歳月をかけて再び大きな岩盤(いわお)となり、隆起して、雨風にさらされ削られ侵食されて、直立不動に聳える不動岩群になったものであります。
この不動岩こそ君が代の歌詞のルーツではないかと言われています。
「神風連挙兵本陣跡」の碑
明治9年10月24日の神風連が集合挙兵したところが愛敬正元宅であり現護国神社の付近であったとされています。
「従軍看護婦慰霊碑」
「教育勅語記念碑」
教育勅語は明治維新後西洋化に急なるあまり、伝統の国民精神が危惧されるに至り、当時の世情を憂慮された明治天皇が道義国家建設の理想実現のため、わが国教育の大本として、明治23年10月30日に発布されたもので、古今に通じて謬らず、中外に施して世界普遍の道徳律であり、永遠不滅の大聖典である。それを戦後日本の弱体化を狙う占領政策により排除され今日に至っているが、そのために伝統の日本のこころが衰微し道義地に堕ち世情混迷を極め、誠に憂慮に堪えず、教育勅語への復帰を希うせろんが彷彿として湧き起こり、特に勅語案文の起草に心血を注がれた侍講元田永孚、法制局長官井上毅両先生を輩出した熊本県として、道義の復興を目指し、昨年教育勅語煥発百周年記念大会を盛大に開催したが、その後永遠にこれを記念すべく記念碑建立の議が起こり、有志間に具体化してここ護国神社の神域に建設し後世に伝えるものである。 平成3年10月30日 教育勅語記念碑建設委員会
「熊本県海軍関係戦没者慰霊碑」
昭和20年8月15日、終戦の詔勅を拝し以来三十有八年。一億国民の困窮耐乏の努力の結晶が今や世界の経済大国にまで発展するに至った。然しその陰に先の大戦に於いて全国二百五十万内熊本県海軍関係者二万六千余柱の尊い犠牲があったことを忘れてはならない。我が海軍部隊は祖国を遙か南方洋上に将又北洋に勇戦奮闘よく殉国の至誠を貫き敢然と散華された勇士の英霊を顕彰することは、尚武熊本県旧軍人生存者の責務である。思えば戦火の御代に生まれ海軍軍人としてその本文を全うされた先輩同僚らの英霊に対し心からなる慰霊の誠を捧げる。茲に戦友有志相計り護国神社の庭に慰霊の碑を建立し、永久に敬仰ぐ場として恒久の平和を乞い願う。遺芳千秋に伝えられんことを。
「独立歩兵第百六大隊戦没者慰霊之碑」 昭和51年2月 建
独立歩兵第百六大隊は昭和17年2月、熊本で編成され、中支派遣軍の第58師団(広部隊)に所属。湖北省沙湖附近の警備、次いで大陸打通作戦に参加。長沙衝陽、全県、桂林と転戦。この間811余柱の尊い犠牲者を出し、昭和21年6月復員した。今度復員30周年を迎えるに当り、この碑を建て記念樹を植えて亡き戦友の霊を弔うものである。 昭和51年2月 独立歩兵第百六会
「消防殉職者碑」 昭和53年3月7日 建
郷土防災の第一線で、消防活動中不幸にして尊い犠牲となられた県内消防殉職者の霊を慰め、その功績を永遠にたたえるため、自治体消防30周年にあたり、その記念事業として、県下消防人の善意による拠出金と県費の助成をもって、この碑を建設いたしました。ここに全県民とともに殉職者の御霊に対し深甚の敬意と感謝を捧げ、心からご冥福を祈り、建碑の記しといたします。 昭和53年3月7日 熊本県消防団員・熊本県消防職員一同
「歩兵第二二五連隊慰霊碑」
第37師団歩兵第225連隊に昭和14年3月23日。小倉にて編成され、栄ある軍旗を拝受。5月、博多港発北支山西省運城附近に進駐。警備に任ずるとともに普南郷寧作戦15軍撃滅作戦、中原会戦、汾南汾西などで輝かしい戦績をあげ、特に萬門口の攻略戦では、感謝状を拝受され、上聞に達する栄を担う。その間、熊本歩兵第13連隊より補強され最も郷土色の強い部隊であった。昭和19年4月より大陸打通作戦に参加。中牟より黄河を敵前渡河。密県では上聞に達する殊勲をたて、次いで許昌を攻略。南下しては宝慶・桂林攻略に赫々たる武勲をあぐ。昭和20年1月、国境鎮西関を通過。佛印処理明号作戦では果敢にドンダン・ランソンなどを制覇したが、遂に8月15日、終戦の詔勅を拝し、無念にも矛を收む。泰国ナコンナヨークにて軍旗を奉焼。十ヶ月の収容生活を経て21年6月、浦賀上陸復員す。その間、北支・中支・南支・佛印シャムと約八千キロを走破したが、1629名もの尊い犠牲者を出した。ここに連隊の栄光の歴史を後世に伝え、今は亡き戦友の英霊を心より弔うため、慰霊碑を建立するものである。又、生死を共にした愛馬の霊を慰めるため、愛馬の碑を併せ建立する。
昭和52年3月13日 歩兵第225連隊戦友会
「二十三師団の碑」
第23師団は昭和13年7月、その主力を熊本に於いて編成され満洲国ハイラルに駐屯。ソ連国境の警備に任ず。昭和14年5月、ノモンハン事件勃発と共に、その主力部隊として出動。近代装備を誇る強大優勢なるソ蒙軍と壮烈なる死闘を続くること数ヶ月。この間、死傷続出。多大の犠牲を払いたるも、遂に国境確保の大任を完うす。同年9月、停戦協定成立し、血涙を呑んでハイラルに帰還。更に北辺の警備に当る。昭和16年、大東亜戦争勃発するや旭兵団として再編され、フィリッピンに派遣。各地に転戦しルソン島に於いて終戦を迎う。本年、第23師団及びその配属協力隊、並びに関係者に広く浄財を募りて本碑を建て、戦没英霊を慰むると共に、その武勲を讃仰し師団の栄光を永遠に伝えんとするものなり。 昭和51年8月15日 第23師団之碑建設委員会
第23師団歌
紫紺の大空草の波 むかふす雲か群羊 ホロンバイルの明け暮れに
練武の歩武も堂々と 最前線の感激を こめて高鳴る進軍譜
「満蒙開拓青少年義勇軍之碑」
昭和12年「満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する建白書」が閣議で決定され、国策として満洲開拓の聖業に参加せし者、当時12・3歳より19歳に至る純白なる青少年、全国で約9万名。本県から約3千名の多きを数えた。満洲の広野に第2の祖国を建設し、五族協和の先駆者たるべく旺盛なる開拓精神を発揮し、着々とその成果を収めつつありし時、昭和20年8月9日、ソ連軍の進攻に始まる戦争終結により、そのすべてが消滅し去り。県出身者三百数十名の拓友が、或いは戦場に、或いは病魔に斃れ、満ソの土と化した。ここに生存者相集い、浄財を以って満蒙開拓青少年義勇軍之碑を建立し、今は亡き拓友の霊石を納め御霊の永遠に安からんことを祈念すると共に、満蒙開拓青少年義勇軍の偉業を後世に伝えんとするものである。 昭和53年8月13日 熊本県連拓友会
「台湾軍忠魂碑」(台湾歩兵第1連隊)
我が台湾軍は、北白川宮能久親王を奉戴して台湾に進駐以来、全島の治安警備と南方第一線の重鎮として国防の任に当たってきた。昭和12年7月、日支事変勃発するや勇躍征途に就き、中支貴腰湾に敵前上陸を敢行。以後揚子江沿岸を遡江進撃して怒涛の如き敵軍を撃破し、遂に武漢三鎮を陥落せしめ、陸の魚雷と激賞された。更には反転南進して海南島を攻略し、これを拠点に欽寧公路をはじめ、南支一円を席巻した。昭和15年11月、機械化部隊として陣容を整え、第48師団を編成し大東亜戦争に突入するや間髪を入れずフィリッピンに追撃して首都マニラを制圧。息つく間もなくジャワ島スラバヤをこれ亦旬日にして一掃平定し、敵前上陸の台湾軍として勇名を轟かせた。その後、濠北小スンダの諸島に移住し新鋭有力なる台湾志願兵を加えて戡定の任に就いた。しかし、戦局我に利あらず昭和20年8月15日終戦の詔勅を拝するに至ったのである。台湾軍創設以来、台湾の治安警備に中支南支の戦線に、将亦南十字の星のもと南冥の海に孤島に、ひたすら祖国の必勝と繁栄を念じて散華された英霊の忠魂を讃え、茲に碑を建て篤く顕彰する。英霊よ安らかに眠り給え。
昭和57年4月4日 台湾軍歩兵第一連隊会
「工兵第六連隊記念碑」
工兵第6連隊は明治9年4月17日、熊本鎮台の工兵第6小隊として熊本市花畑町に創立以来、西南の役を始めとし日清日露日独の各戦役を経て満州事変支那覇事変、遂には大東亜の大戦に参加従軍し赫々たる武勲をたて、第6師団工兵第6連隊の栄誉を世界に輝かしたこの尊い報国の精神と優大なる工兵魂を後世に伝えるため、英魂の鎮まりませる熊本県護国神社の神域に創立100年を記念して碑を建て、その徳を永遠に顕彰するものである。尚、最終兵営跡には「至誠」の碑に併設してその旨を記す。
昭和51年4月17日 創立百周年記念 工六会
「パナイ島戦歿者之碑」
太平洋戦争中、フィリピン・パナイ島に於いて同島を守備する我が独歩107大隊(戸塚部隊)と激戦を極めたるゲリラとの間に、3年有余の間昼夜死斗が繰り返されたり。而して昭和20年3月18日、ゲリラ軍の包囲下に米軍の上陸を見るや、我軍は忽ち敵の重囲に陥り戦局は峻烈を極めたり。かかる戦況下に於いて18日に入院患者。21日にイロイロ市在留邦人従容として自決を遂げたり。その悲惨の状将に慟哭の極みなり。パナイ島に散華せし将兵邦人合わせて二千余名なり。その御霊よ。今何処におわすや。万感胸を圧し悲涙滂沱たり。生を得たる我ら一同。御魂よ安かれと祈り、ここに碑を建立す。
昭和52年3月18日 第百二師団独歩第176大隊有志・パナイ島遺族会並びに追慕者一同
「大東戦争殉国英霊顕彰碑」
昭和41年夏、第6師団終焉の地ソロモン群島に散在する遺骨を収集して、母国に迎えた機会にこの碑を建て大東亜戦争に関係して各方面で散華された諸英霊の遺徳を顕彰するものである。 昭和41年9月 熊本県民一同・全国追慕者一同
昭和18年1月以後ソロモン群島の第6師団戦跡
ニュージョージア島
アルンデル島
コロンバンガラ島
ブーゲンビル島
計画 熊本県ブーゲンビル島遺骨収集委員会
弔日本将兵之霊
もののふの かばねはここにくちぬとも
みたまよ通え ふるさとの空
昭和41年7月 熊本県戦友・遺族一同
「野戦重砲兵部隊之碑」
昭和55年10月25日 建
「海軍軍医少佐 木下達雄命慰霊碑」
昭和55年1月14日 建
辞世 若桜 散りゆく花を惜しまねど 後にのこせし父母ぞ思はる
「天皇陛下御即位大典・皇紀二千六百五十年・教育勅語渙発百周年・伊勢神宮式年遷宮奉賛募財達成記念神馬之銅像」
平成2年11月25日 建 第61回伊勢神宮式年遷宮奉賛会熊本県本部
「英霊軍旗と共にここに眠る碑」(台湾歩兵第2連隊)
台湾歩兵第二連隊は幾度か海を渡り、遠く異郷の山河に栄光の軍旗を先頭にして常に戦力の中核となり赫々たる武勲をたてた。然しながら此の間二千百余柱の英霊が軍旗のもとに散華され、軍旗また南溟の孤島に終戦の詔勅を拝して暗涙悲憤の間に奉焼された。幸いにして軍旗の遺灰は、時の連隊長田中透少将のご遺言により祖国に持ち帰られた。我々は長い間、此の軍旗の魂と英霊を永久に奉祀したいと念じていたのであるが、ここ熊本県護国神社の境内にふさわしい鎮魂の場を得ることが出来た。ここに眠る英霊は炎熱の山に屍臭の大河に、将又瘴癘の地に困苦欠亡に耐えて戦い続けた戦友である。此の間、或いは敵弾に斃れ、或いは病を得て無念の涙を呑み、共に滅私奉公以って祖国に殉じた戦友である。真に祖国の明日を憂いつつあった若き命を、遠い異国の果てに散らしていった戦友の魂は、今こそ愛し続けた墳墓の地に還ったのである。しかも軍旗のもとに集まって、とこしえの安住の地を得、軍旗また英霊に囲まれて安らかにその魂を鎮めるものと信ずる。この碑は生きて祖国の土を踏んだ我々の痛恨慟哭の情の凝集であり、軍旗と英霊を永久に顕彰すると共に、我が連隊の戦歴を後世に伝え戦いに参加した者の純粋なる殉国の志を子々孫々に遺さんと欲する我々の悲願の結晶である。復員三十周年を迎えるにあたり連隊関係の戦友並びにご遺族の総意のもと茲に「英霊軍旗と共にここに眠る」碑を建立したものである。 昭和52年7月 元台湾歩兵第2連隊戦友一同
台湾歩兵第2連隊戦歴等の概要
明治40年11月7日 軍旗を授けられ台南に創設される。
昭和5年 霧社事件の平定。
昭和12年9月より台湾混成旅団の中枢として支那事変に参加。
(中支)上海周辺の戦闘から湖東作戦、次いで揚子江遡江作戦。九江の上陸戦闘から瑞昌の戦闘、次いで武昌攻略戦。
昭和13年10月「感状」を授与される。
(南支)海南島上陸戦闘
欽州湾上陸戦闘から南寧八塘、続いて賓陽武鳴の戦闘。
昭和15年2月「感状」を授与される。
昭和15年11月新設第48師団にその基幹として編入される。
福州の上陸戦闘
昭和16年12月より太平洋戦争に参加。
(フィリッピン)ルソン島北岸の上陸戦闘からマニラ攻略戦。
昭和17年1月「賞詞」を授与される。
(ジャワ)クラガンの上陸戦闘からスラバヤ攻略戦、チモール島の防衛。
昭和20年8月15日終戦の詔勅を拝し、同8月28日小スンタ列島アロール島に於いて軍旗奉焼。
昭和21年6月5日内地上陸。部隊解散。復員。
最後の連隊長 陸軍少将 田中 透
辞世の歌
百万の つわもの死せり 我もまた 笑って死なむ 日の本の民
「満ソ殉難の碑」
慰霊顕彰の辞
戦後25周年を期して満洲シベリア等で非命に斃れた軍人軍属開拓団員満洲開拓青少年議勇隊及びあまねく官民同胞の御霊を慰めるため昭和45年春有志相図りて本会を結成し広く熊本県民の賛同を得て同年八月九日大慰霊祭を執行すると共にその事績を永く後世に伝えるためこの碑を建てた希くは英魂の安んせられんことを。 昭和46年3月 満ソ殉難者慰霊顕彰会