戦没者の手記
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戦没者の手記1
熊本県遺族連合会発行「ともしび」より転載
「作戦の先端を飛ぶ」
氏名 永谷 尚 命
階級 海軍上飛曹
所属 ウ102ウ297豹部隊
戦没場所 南洋群島
戦没月日 昭和19年6月25日
年齢 19歳
拝啓 速達拝見早速御返事致さねばならぬとは思いながらも、連日の愛機の整備に追われ、本日やっと完了準備も万端整い最早出撃の時刻を待つのみとなりました。
思えば長い間、色々と御世話になり、特に在学中は次から次ぎと御心配ばかりかけ身の不幸に今更ながら恥じる次第です。しかし今では国家の御役にたつ身と なり、今正に大東亜戦争の真っ只中に飛び込んで行きます。
御両親様にもきっと喜んで いただける事と思い、激戦の庭に想いを馳すれば腕がなって仕様がありません。既に戦友は首を長くして私達の進出を待っています。例え何時何処で如何なる事に会おうとも、尚は立派にやったと信じて下さい。必ず皆様の御期待に副う覚悟でいます。
何を言っても身体が一番大事、充分健康に御留意されんことを御願い致します。狩場様、今村先生その他の方々にはついに近況宝庫報告もできず出で立することに成りましたが、父上様より宜しく御伝え下さいませ。
では呉々も御大切に御長寿を御祈りしてペンをおきます。 敬具 父上様、母上様 尚
拝啓 初夏の候と相成りました。その後父上様はじめ皆には相変らず御元気にて御暮らしのことと信じています。その後、私も愈々元気でやっています。御安心下さい。
当〇〇〇に着任以来元気一杯攻撃の暇には暑さに負けず訓練を積んでいます。
初陣の際は、右翼燃料タンクに被弾を受けましたが幸いにして無事帰投するを得ましたが、これも日頃蔭になり陽になりして御護り下さる父上様の心、神に通じ天佑ありたるものと信じています。近く大進攻作戦おそらく開戦当初ハワイ奇襲以来の大作戦が決行されます。御蔭にて私もこれに参加するの光栄を得ました。全くこの上なき身の幸い、よき死場所必ず本分を全うする覚悟でいます。
作戦の先端を行くものは我が戦闘機部隊全く痛快でなりません。分隊長、分隊士はじめ幾多の戦友を失った私どもにもやがて遺恨を晴らす時がまいります。思う存分やります。父上様の御期待にそむかず兄上の分までも。もう熊本も若葉が繁っている頃でしょう。せみもやがて頭をもたげることでしょう。こうしてペンをとっていると過ぎし日を思い出します。
どうか御元気で何時までも何時までも御暮らし下さいませ。御長寿を御祈り致します。
今村先生には先日近況まで御通知しましたがまだ届かないことでしょう。呉々も宜敷く御願い致します。ではこれにて母上様はじめ典子、浩、文子に宜敷く御伝え下さい。 敬具
五月九日 尚
戦没者の手記2
「戦友の死を想い感涙にむせぶ」
氏名 生森 豊
階級 中尉
所属 球7071部隊井川隊本部
殉没月日 昭和20年4月21日
殉没場所 沖縄伊江島
年齢 43歳
其の後、御無沙汰に打ち過ぎすまなく思っている。家内一統益々元気で奮闘の事、何よりの事と祝福して居る。降って私儀愈々元気で軍務に敢闘中だから御休心を乞う。
南国の三月は内地の四、五月を思わせる様な暖かさ桜花も散り、新緑の若葉をはじめ常夏の国を思わせる万葉深緑を以って包まれ、農家の一期稲作の苗代の播種も終り苗代も青着く時です。内地は現在3月の植木市の時期で余寒未だ厳しい時、農家は麦の最後の手入れ農繁期村区民一生懸命食糧増産に邁進している事と思う。
戦局の前途真に重大なる今日、郷里の村民が必勝の信念を以って戦意の昂揚に務め戦力の増強に挺身しある事を日夜感謝致しております。当地の部隊も部隊長殿をはじめ将兵一同益々元気旺盛来るべき決戦に備え心身の鍛錬に戦備の強化に務め奮闘中です。
比島硫黄島敵上陸後本島の有する使命が如何に重大なるかを知り、現在本土国防の第一線が本島にある事を充分認識し軍官民一体となり、米鬼撃滅の特攻精神に燃え皇土防衛に当り決戦に備え、やがて皇軍進攻の基地たらしむるべく最善の奮闘に務める事、やがては本島に対し敵の上陸を企画する事は明らかな事で、其の時こそ比島将兵の如く硫黄島勇士の如く本島守備の将兵が県民が一千人殺の精神を以って、敵に当る日の近きにある事を信じ万全なる準備と万々たる闘志を以って待機している。
皇軍の将士とし勿論身命は捧げて居る何等今更申す事はない。唯両親に対し孝養ができなかった事をわび子供の養育を充分願うのみだ。子供は個性と希望とにより向うべき道は決めて唯々上御一人に対し奉り御奉公のできる立派な皇国民を育成する事こそ、母としての務めだと信じている。
戦局が進展するにつけ本土もまた戦場と化するのも覚悟せなければならない。自分一人でなく一家一族が聖戦に従う光栄を担う時の準備と覚悟を決めておる必要が大切な事と思う。思召以来幾多の試練にも会った。特に出征中幾多の上官同僚部下が名誉の戦死を遂げられた事に対し、日頃回想する度に感涙にむせぶと共に幸か不幸か九死に一生を得た自分としては済まなく思う。それと共に戦友の分まで奮闘する事こそ自分達生存者に与えられた任務と信じ努力致す覚悟です。
当時負傷した頸頭右手の傷も入院一ヶ月にして完全に全快、原地到着はおくれたが現在部隊長殿はじめ上官の懇切なる御指導で奮闘中だから御安心を乞う。下田清君の戦友で大門君という兵が原隊復帰のこの際この間の状況を書いて幸便として託したが、途中異状ウのため無事到着しなかったことを知っている。唯々上官同僚部下の冥福を心より御祈りすると共に今後必勝の信念を以って、敵米撃滅の一路に邁進することが、生存者の責務であると信じ敢闘中です。
軍刀の件で大野一則氏には真に済まなく存じている。機会が到来したなら何卒御許して頂きたい。先般より武装品その他で度々無理を申して済まなかったが、現座の状況としては送ることはできないと思うので無理までして手入れ致さなくてもよい。晃(実弟)にもその様に申し伝えてくれ。梅林の敏晴(義弟)さんも元気でいる。今連絡兵として来ているので毎日顔を合わし郷里の事を話したり、お互いに一生懸命務める様、励み合って居る。竹崎、梅林にもよろしく其の様に伝えてくれ。竹崎の徳永忠司さんの部隊も昨年までは当地にいた様子だが、現今は〇〇方面に転進と聞いたので連絡は取れない本土も愈々戦場と化する日も近きにあると思う。くれぐれも各職場において最善の努力を致し、老母の孝養、子供の養育を充分致す様お願いする。下田清君は部隊が異なるから近頃会わないが元気で居る様子です。
子供に対して便を出したいが多忙で書けない襄二(次男)小百合(長女)が正月頃出した手紙は受取った有難と申してくれ。修一(長男)英世(三男)にも元気と思う。勉学に務める様申してくれ。豊美(二女)も日増しに大きくなり居る事と思う。家業育児で日夜多忙とは信ずるが、充分なる奮起を望む。
先般五百円電報為替で送金した受取った事と思う。麦作の状況は如何、海苔は豊作だろうか通信も前通りではないと思うが、郷里の便は暇さえあれば送ってくれ。子供にも手紙を出す様申してくれ。支那事変従軍記章下賜の手紙四、五日前受取った。唯々光栄に感謝するのみだ。
親類近所区民には日頃御無沙汰のみで済まなく存じている。宜敷く伝言を願う。寸暇があったので便を書き出したが筋が立たず乱文乱筆になったが悪しからず。最後に充分健康に注意し活動の程を祈る。
航空隊の准尉さんが内地に向こう話でこの手紙を託する事にして急いで書いた。役場学校関係にもよろしく。
三月五日
球7071部隊井川部隊本部 生森 豊
鈴江 殿
戦没者の手記3
「輜重部隊として張切る」
氏名 前島喜義 命
階級 陸軍伍長
所属 野砲第6連隊第2大隊
戦没場所 中支
戦没月日 昭和15年3月27日
拝啓 永い間ご無沙汰いたしていますが水俣の皆様も変りないことと思います。私も変りなく軍務に励んでいます。
昨年10月の南昌作戦を終えてから、お正月もゆっくりとした気分で迎えさせて貰いました。その日は戦地という気分も忘れる位でした。この前まで輜重部隊の教育を受けたので1月20日付で大行李班長を命ぜられました。隊と隊の間にいろいろと運ぶことが任務となっています。
敵匪の中を通過する場合もありますから、いつ襲撃されるかわかりません。仲々危険ですが誠に重大な任務でありますので張り切っています。義姉さんも両親はじめ11人の家族の世話で大変でしょうが頑張って下さい。
村の皆様へよろしくお伝え下さい。
2月16日 前島喜義
サカ様
戦没者の手記4
戦歌「戦友」が身に沁みる
氏名 前田染雄
階級 曹長
所属 奈良部隊本部
戦没日 昭和18年9月30日
戦没場所 西南太平洋方面
大分涼しくなりましたが、父母上様には御元気ですか。染雄も大元気で今張家口びて警備にあたっております。もう死ぬような事はありません。張家口はとても大きなところです。もう奈良部隊の任は平櫻線鉄道警備治安維持にあたっております。
十三日の日、人数が余り少ないから六師団から補充兵がましりました。出動部隊では奈良部隊が一番戦傷者が多く七百余名の多数です。いかに奈良部隊が苦戦舌かお察しと思います。
けれど戦死なさった親さんは、どんなに思いの事か英霊は神としてまつられますが、中には一人息子も何人かあります。戦友が戦死し、戦やんで戦友の慰霊にと一本の花を送る心、戦場であればこそ感じる。戦歌「戦友」がはじめて身に沁みます。無事生きていきているのも父母様のご加護と神々様のお守下さった事と思います。
ここに一円封入しておきます。なんなりとお使い下さい
平成18年9月15日
戦没者の手記5
「貯金は凱旋のとき持って帰る」
氏名 境田芳巳
階級 上等兵曹
所属 佐世保気付第一水戦隊二一駆逐隊
戦没月日 昭和18年10月1日
戦没場所 ソロモン群島
秋の取り入れにて多忙だろうね。その後、子供もお前も元気かい。父上が死亡されたら今年はお前一人にて何辛動だろうと思っております。十月二十五日に〇〇より〇〇に帰りました。安心して下さい。又、今は毎日毎日警備に服しております。漢国も目出度く陥落しまして、なにより喜んでおります。
〇〇より帰れば直ちに送金するように便りを致しておりましたが、戦地にて貯金に入れてしましましたので、佐世保に帰らなければ払い下げできません故に、凱旋の折に払い下げて帰ります。
お前の方でどうしても金が入用なれば預金通帳を送ってあげる。都合できれば凱旋までに都合しておいてくれ。戦地にて百円預けました。どうしても金が入用なれば十一月分の俸給を全部送金すれば、三十五円位い送られるので、十一月三十日頃は内に着くだろう。
父母も死なれた今日、俺は戦地にいた頃も今もできるだけ辛棒している。出征中に父母を亡くして俺も残念にてたまらん。それも致し方はないと思っている。お前も苦労だろうが、俺の凱旋までは家の事はたのんでおく。小隊長殿と分隊一同に礼状を送ってくれ。
俺は毎日〇〇にて毎日元気にて警備に服している故に安心してくれ。秋の取り入れの人夫代や家の事を知らせてくれ。潮さんの部隊名が分かれば知らせてくれ。元気にて凱旋まではお前にたのんでおく。
昭和13年10月29日
芳巳
すえの様