寄稿 大西瀧治郎海軍中将にみる指導者の責任と覚悟 中熊真一
大西瀧治郎という名前を聞いたことがおありだろうか。少なくとも私と同年(昭和41年生)以降の方では聞いたことのない方がほとんどであろう。しかし、神風(しんぷう)特別攻撃隊の名は御存知と思う。大西瀧治郎海軍中将は特攻隊の父といわれている人である。戦後は若者を特攻作戦という無謀な作戦にかり出した「愚将」・「暴将」といったような否定的な評価をされているようであるが、私の印象はかなり違う。
大西中将を、特攻作戦を創始したかのように言う人もいるが、昭和十八年の暮れから十九年の初めにおけるラバウル時代に、すでに日本の航空兵力の劣勢を憂慮した海軍搭乗員の一部の間には体当たり攻撃の思想が芽生えつつあったようだ。
大西長官がフィリピンで第一航空鑑隊の司令長官の任務に就いたときには、熟練のパイロットの多くがそれまでの戦闘で戦死し、ほとんどはまだ訓練半ばのパイロットであり、戦闘機も少なく、フィリピンを敵に奪われたら南方からの資源の補給は絶たれてしまう。また、栗田艦隊がレイテ湾に到達するには、可動出来るわずかの兵力をもって一週間でも敵の空母の甲板を使えなくして艦上機が発進できないようにする必要があった。これまでの定石通りの戦闘法ではとても対処できないという状況下で特攻作戦は行われたのである。
猪口力平先任参謀に昭和十九年の二十七日であったか、長官はこう言ったという。「城英一郎大佐が体当たりではなくでは駄目だと思うから、とにかく私を隊長として実行にあたらせてくれ、と再三言ってきたことがある。内地にいたときはとうていやる気にはなれかったが、ここに着任して、こうまでやられているのを見ると、自分にもやっとこれをやる決心がついたよ。」と。猪口参謀が黙っていると、つづけて、「こんなことをせねばならないというのは、日本の作戦指導がいかにまずいか、ということを示しているんだよ。」と言った。なおも猪口参謀が黙っていると、「なあ、こりゃあね、統率の外道だよ。」そうポツンといったという。大西中将が特攻作戦に対してどのような認識を持っていたか、窺い知ることが出来るのではないか。
第一航空艦隊副官の門司親徳大尉(門司大尉は中将がフィリピンで第一航空艦隊長官に赴任されるときに台湾まで出迎えに行き、しばらく中将に副官としてお仕えされていた方である。関行男大尉の敷島隊への訓示にも立会い、その後何度も特攻隊の訓示に同席されている。)は訓示における大西中将の印象を次のように述べている。門司氏の著書「回想の大西瀧治郎」より一部をそのまま引用する。“私の知る限り、長官は、俺も後から行く、とか、お前たちばかりを死なせはしない、というような言葉を、口に出したことはなかった。若い人達を煽動するような言動になることを、極力抑えていたように私には感じられた。記憶に残る言葉としては、自分は指揮官だから、みなと一緒に行けない、という言葉だけであった。特攻隊員の一人ひとりをじっと見つめて、この若者は国のために死んでくれるのだと、手を握っていた長官の姿は、その人と一緒にそのとき自分も死ぬのだという印象であった。長官は、特攻隊員と共に、何回も何回も死んだのであった。”
訓示の際に「俺も後から行く」といえば特攻隊員たちとある程度は心を共有できたかもしれないが、同著で門司氏も述べられているように、大西中将は特攻作戦を決定すると同じくして戦争の勝ち負けにかかわらず、すでに自決を覚悟していたのであろう。それ故、その峻烈なる覚悟が自分も後から行くという言葉を発せさせなかったし、大西中将にとってそれを言葉にすることは何の意味も持たなかったのだろう。
また、わずかな食料の中、士官が卵を特別に食卓に上げると、それをじっと見たあと特攻隊員にあげてくれと卵はそっと押し戻す。特攻隊員に限らず兵員が病気などで戦うことが出来なくなれば作戦自体が成り立たなくなってしまうとはいえ、自分の食のことを優先させる上官もいたなかで、軍医が心配するほど体が衰弱してもまずは特攻隊員の体を心配していたのである。また内地に帰った後も殆どを軍令部次長官舎で過ごすため、ある者がたまには家に帰られたらいかがですかというと、「特攻隊員は家族の温かみも知ることなく今も死地に向かっている。握手をして見送った特攻隊員640名の手の温かみが今も残っている。私だけが家に帰るわけには行かない。」とこたえる。大西中将にとって特攻隊員は自らの分身同然であったに違いない。
昭和二十年一月七日、第二十七金剛隊八機、第二十九金剛隊三機の攻撃を最後にフィリピンにおけるまとまった特攻隊の攻撃が終わり、一航艦司令部は台湾への転進を命じられる。あるとき台湾で門司氏が大西中将と散歩に行った際に、「棺を蔽いて定まる、とか、百年の後に知己を得る、というが、己のやったことは、百年の後にも知己を得ないかも知れんな」と独り言のように言われたという。この頃になると、特攻隊員への訓示の内容はもはや単なる特攻作戦の話ではなくて、徹底抗戦の話であったという。つまり航空機による特攻作戦どころではなくて、極端に言えば国民総特攻というような徹底抗戦の覚悟をしなければいけないという話しだったようだ。門司氏はこの言葉について次のように述べられた。「この国民総特攻というべきような言葉は日本人に対してだけではなく、アメリカへのメッセージではなかったのか。日本人の覚悟をアメリカに知らしめることによりこのまま戦争を続けることは連合国にも甚大なる被害をもたらす。そして連合軍のほうから本土決戦の前に何か和平或いは戦争終結の機会が出てくるのを期待されていたのではないか」と。
このことは、昭和十九年十月十七日に小田原参謀長に、“日本はもう戦争を続けるべきではなく、早く講和をすべきである。ガダルカナル以降、敵の反攻を食い止めたことがない日本は、一度でよいから敵をレイテから追い落としそれを機会に講和に持ち込めば、敵に七分、見方に三分の条件で出来る。”といったようなことを述べたことからも裏づけ出来るのではないだろうか。
大西中将は、特攻作戦が統率の外道であるという認識を持ちながら、作戦を下命している。後に自分に対して起きるであろう世間の自分への厳しい評価を充分承知しており、自分の死後もたった一人でその業を背負っていく覚悟があったのであろう。人間にとって孤独は耐えがたいものである。特に辛いときなどは自分に共感してくれる人がほしいものだ。周りには大西中将の自決を悟っていた者もいたようだが、自分一人の心のうちにその決意を秘め、後世の自分に対する評価も承知したうえでなんら弁明もせず最後にたったひとりで自刃したのだ。その精神力たるやとても我々常人の及ぶところのものではない。
昭和二十年八月十六日の未明、官舎にて割腹、軍医が気付いたときにはすでに命を救うことが出来る状態ではなかったが、「生きるようにはしてくれるな」と治療も介錯をも拒み、「これで送り出した部下たちとの約束を果たせる」と十数時間苦しんでの壮絶な死であったという。享年55歳であった。
遺書
特攻の英霊に曰す 善く戦いたり深謝す
最後の勝利を信じつつ 肉弾として散華せり
然れ共其の信念は 遂に達成し得ざるに至れり
吾死を以て旧部下の英霊と 其の遺族に謝せんとす
次に一般青壮年に告ぐ 我が死にして
軽挙は利敵行為なるを思い 聖旨に副い奉り
自重忍苦するの誡めともならば幸なり 隠忍するとも
日本人たるの矜持を失う勿れ 諸子は国の宝なり
平時に処し 猶克く特攻精神を堅持し
日本民族の福祉と 世界人類平和のため
最善を尽くせよ
大西中将の人となりを豪放磊落と評する人は多いようだが、事を起こすにあたって非常に詳細な調査と綿密な計画を立ててから実行するという一面もあったようだ。二連空参謀福元秀盛少佐の話では、偵察や爆撃にも自ら飛行機に搭乗することもあり、それも最先頭の指揮官機よりも、編隊において敵に攻撃される可能性の高い位置の飛行機に乗っていったという。まず自らが行動するという姿勢であったため部下の信頼は絶大なものがあった。また、海軍大学校甲種学生を受験した際、第一日の口頭試問で『独断専行』という問題があり、試問主任に受験者はずいぶん問い詰められいじめられたらしいが、二日目の試験を待つ控え室で福留繁氏に、「昨日の独断専行にはかなりいじめられたが、結局責任は自分で負いますということだと思うと答えたら教官はよろしいといって放免してくれた。」、というようなことを言ったという。そのときの言葉の通り、自らが責任を取るという意志を貫いて人生を終えたといえるだろうが、なかなか出来ることではない。この二日目の福留氏との談笑の途中で突然大西中将は学校の副官に連れ出され、それっきり帰ってこなかった。後になってその理由がわかる。それは、公務で口答試験の前日横須賀に行き、その晩同地の料亭で、座に侍った芸者の取りもちが気に喰わぬといってぽかりとやったというのである。そのことが地元の新聞にでかでかと載り、横須賀鎮守府で問題となって、大学校学生銓衝規則の素行優良なる者とか何とかの条項に違反するというので、候補者取り消しの一幕となったようだ。中将の大学校失敗はこれが二度目であって、さすがにこのときの失敗はこたえたようだが、彼の一面が垣間見えるエピソードではないだろうか。
その頃の海軍兵学校の入学はなかなか難しく、また、志願者も多かったようで、海軍大学校は、さらにこれらの秀才にふるいをかけるのだから、入学はより困難とされ、それだけに海軍大学は前途を約束される登竜門だというのが一般世評であった。ところで、海軍では大学を出たからといって、格別進級差などをつけるようなことはせず、その人自身の才能次第では大将にも参謀将校にもなることは可能であった。大西中将は、亡くなったときは中将軍令部次長であり、このことは彼の非凡さの証左といってよいであろう。
今の日本を見渡してみて、部下や自分の行為に最終的にはきちんと責任を持つ覚悟で命令したり行動している指導者がどれほどいるだろうか。この人になら自分の全てを投げ打ってでもついていこうという気持ちにさせてくれる、それだけの度量を持った指導者をどのくらい思いつくだろうか。個人の利益追求や保身のみに汲々としている日本人が多すぎはしないだろうか。今の日本人には「責任」と「覚悟」がすっかり抜け落ちてしまっているような気がしてならない。大西中将は「青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、断じて日本民族は滅びはしない。」といったといわれる。しかし、特攻隊員に限らず、一度しかない青春を充分に謳歌することなくたった一つの命を祖国より遠く離れた空で、海で、陸で散らせていった先人達に心を寄せる日本人が今現在どのくらいいるだろうか。そんな日本を、大西中将はどのような眼差しで見つめているのだろうかと考えると、私は今の日本に対し憤懣やるかたない気持ちを抑えられないのである。
<参考文献>
大西瀧治郎 故大西瀧治郎海軍中将伝刊行会
回想の大西瀧治郎 門司親徳
神風特別攻撃隊の記録 猪口力平・中島正
神風特攻の記録 金子敏夫
空と海の果てで 門司親徳
特攻長官大西瀧治郎 生出寿
特攻の思想 草柳大蔵
特別寄稿 大西中将の遺書について 門司親徳(於 平成十五年度銀鷹会)
平成十八年の八月と十二月に、門司親徳氏に大磯のご自宅で当時の話を伺うことが出来ました。この場をお借りしまして深く御礼申し上げます。
��田清一飛曹の遺書は、御遺族のご厚意により許可を得て掲載しております。
追記:門司親徳氏は平成20年8月16日に逝去されました。心よりご冥福をお祈りいたします。
寄稿 「5月19日より27日までインパール、コヒマ方面慰霊巡拝の旅」 バンコク在住 池田
インパール南方ロトパチン村では毎年5月20日慰霊祭が行われている。
昨年は7月に訪れたので参加することが出来なかった、今年は、慰霊祭に合わせての訪問である、事前の調査では現在慰霊祭は行われていないという話を聞いていた。しかし参加者だけでやればいいじゃないかということで、参加者だけでやる事に決定。しかし人数は少ないがちゃんと、執り行われていたのである、一人でも慰霊祭は慰霊祭です。
ヒンドゥーモンク(僧侶)一人の慰霊祭、モンクに伺ってみたところ年々参加者の数が少なくなり今では一人が多いということだ、村の方は村の入り口に慰霊碑があっても世代が変われば、どんどん風化して行くのかも知れない。
清掃後、我々も英霊に黙祷の後、海行かば 斉唱 終わるころには子供やら村の人やら結構人数が増えていました。又チェンマイから送ってもらいバンコクに二週間ほど寝かせた櫻会の桜を植樹。
管理人に植えてもよいかと尋ねる。
管理人曰く「はい、何処にでも植えてください」、と慰霊碑のまん前二箇所を指差す。
一箇所は何も植えてなかったが、左の方は何か植わっているのである。
が管理人曰く「それは捨てていいです」。
そう言うわけにも行かず敷地内の隅のほうへ植えさせてもらうことにした。
かなり弱っていた上、枝を三分の二程切ってしまったので、心配である。管理人にくれぐれも水をやって下さいとお願いしてきた。
慰霊碑も少々崩れている部分もあったので、次回来た時はペンキの塗り替えなどやりたい旨管理人に伝える。
あまりにも落書きが酷過ぎる。
師団歩兵司令部長 山砲兵第33連隊長 福家政男(ふけ まさお) 大佐の慰霊碑
マニプール州インパール南方ロトパチン村
47ミリ速射砲昭和16年製大阪
慰霊碑横のインド平和公園に行く、管理人が一緒ということもあり、この周りに桜を植えることも約束。
この三つの石は日本、インド、イギリスという意味らしい?日本政府が立てたものでよく意味がわからない。
このロトパチン村から南方へ数キロ行ったところが激戦の地ビシュンプールである。
英印軍との戦闘が激しかった三叉路。右へ行けば5846高地、其処から三つこぶ高地へつながる道。
ビシェンプール南方2926高地を攻めた第33師団(弓)歩兵第214聯隊第2大隊540名のうち生還は37名であった、この部隊が一番インパールに近ずいた部隊である、またこの2926高地を日本人が多く血を流したことで地元民がレッドヒルと名付け毎年5月20日慰霊祭を執り行っている。
テグノパール
インパール方面作戦記録には、山本支隊は3月26日インドビルマ国境モレを突破と書いてある、其処からテグノパールまではさほど距離は無いが、3月下旬に第20インド師団と戦っている、此処は峠の山々を英印軍が全て守っているので、かなり苦戦したと思われる。
テグノパールから見たビルマ方面果てしなく山の向こうがビルマ領
テグノパールの丘、というよりも山のてっぺん、此処で日本軍が陣を構えたものと思われる、現在はテグノパール地区の墓園になっている。
3年前日本の遺骨収集団が捜索をした模様、日本軍の装備品は出たが遺骨は出なかったそうだ。
未だご帰還叶わぬご遺骨がこの地区だけでも相当あると思われる、一日も早いご帰還を願う。
又この地区の案内をしてもらった地区長さんにも情報があれば何時でも連絡をお願いしますと頼んで後にした。
サンシャーク
インパールから北東へ100キロほど行った所ですが車で行くと3時間から4時間かかります非常に風光明媚で良いところなのですが、如何せん道が悪い上やはりこの道もチェックポイントが3箇所ほど待っていた一箇所目は麓の町、二箇所目はサンシャークとウクルルの分岐点、3箇所目はサンシャークの村の入り口、まあ丁度良い休憩ポイントと思えば何の事は無いのですが、日本人は珍しいのでパスポートを見せろだの何だの色んな事を言われる。
この辺に来るとインド人の姿を余り見かけない、ほとんどナガ人で言葉もナガの言葉だ。
サンシャークの村
3月25日の攻撃にも出てくる、第31歩兵団 左突進隊 58連隊第11中隊長西田中尉が戦後建てた、西田メモリアル現在は閉館中教会の左下に建ってます。
教会の入り口手前に村民の方が個人的に建てられた慰霊碑があり、敷地内には当時のものが置かれて、家の中には写真などが飾られている。本人はウクルルで学校の先生をしていらっしゃったそうだが、現在は定年で退職されている。有難い事である。
コヒマ
日本軍はコヒマを占 領したと考えたが,実は,そこはコヒマの一角であり,ディマプールからインパールに連なる自動車道路を完全に遮断するには,英印軍陣地のあるコヒマ南西の三 叉高地を確保する必要があった。英インド軍は,谷間のコヒマから撤退し,南西の三叉高地に防衛線を張った。第5インド師団の第161旅団の増援を受けたコヒマの英インド軍は,兵力3000人で,頑強な抵抗を示した。
1944年4月17日,第十五軍司令官牟田口中将は,第三十一師団「烈」佐藤師団長に,天長節(4/29)までにインパールを攻略することを命じる一方,山砲大隊と歩兵3個大隊をインパール方面に転用を命令した。しかし,佐藤中将は,兵力の転用が不可能なことを伝えた。
烈兵団は,コヒマ南西の三叉高地を攻略できず,敵3個師団の攻撃,100門の火砲から1日1万発の放火を浴び苦戦中 であった。ギャリソン高地は現在英印軍墓地になっておりますが、1944年4月この高地をめぐりん劇烈な白兵戦が日英軍によって行われた双方の戦死者数千に及んだ。
「現在のギャリソン高地三叉路、右側の丘の上が現在の英印軍墓地、今年4月には本国からヨークシャ候見えられている。」
現在でも此処まで来るのに一苦労します、日本軍はそれをあの大河チンドイン河を越えて、二千メートル級の幾重にも連なるアラカン山脈を越えて、ビルマから一ヶ月足らずで、迎え撃つ英印軍もそれはビックリしたに違いありませんが、よくも此処まで来たものだと。
ギャリソンヒルには英印軍の慰霊碑しかあ りませんが、その一角に金網で囲い桜の木が植わっていました、おそらくまだ3−4年しかたっていないでしょう、インパール戦記にも出てきますが、このギャ リソン高地には当時大きな桜があったそうです、おそらく日本の桜とは違いましょうが、戦友会の方が植えられたのでしょう、現在植えられているのは見る限り 日本の桜の様でした。
コ ヒマには日本軍の墓地や慰霊碑はありません、日本のコヒマ戦生存戦友会、また遺族などがお金を出し合って建てたカトリックカテドラルがある、戦没した日本、イギリス、インドの全ての兵士の 冥福を祈ったのだ。それは見事な大聖堂で収容人員は約3000人、また内側などもすばらしく、ジーザスの十字架は一本の木で作ってあるそうだ。
係りの方がどちらからお越しですか?
はい、日本から来ました。
そうですか、横に此処を建てた 奉納趣意書 がありますので見てくださいと案内された。
【奉納趣意書】
1944年の春、ここコヒマでは、ガリソン高地の争奪に日・英両軍が鎬を削って戦い、彼我合わせて数千の将兵が、祖国の為に死んで逝きました。
“君、故郷に帰りなば伝えよ
祖国の明日の為に死んで逝った
われらのことを“
ガリソン丘にあるこの碑文は、亡くなった日・英・印全将兵に共通の想いであり、そして彼らが願った「祖国の明日」とは、平和と繁栄に満ちた祖国だったと確信します。
しかしいまや世界は狭くなり、世界の平和なくして祖国の平和も繁栄も有り得ません。私たちはお互に国境を越えて共存共栄に努力することが大切であり、これが引いては、亡き勇士達の願いに応える事にもなりましょう。
このたび、カトリックの聖堂がコヒマに建立され、朝夕亡き勇士にミサを捧げてくださることは誠に有難いことです。又、地元の皆様が司教様と一緒に末永く往時の勇士を偲んでくだされ、彼らが願った平和と繁栄の為に精進くださるならば、これに優る供養はございません。
玆に、私達生き残り戦友並びに遺族相諮り、聖堂建立資金を集めて奉納する次第です。
合掌
1989年1月吉日
日本国
コヒマ戦生存戦友
同 戦友者遺族 一同
そしてその横にはなんと桜が咲いていたのである、5月25日である、当に散っているはずの桜が、日本の桜ではないのではないか?
いや間違いなく日本の八重桜だ。
係りの方に聞いたら、このカテドラルを建てた時に同じく日本の桜を回りに100本ほど植えたのですよと言う返事だった、しかし係りの方も首をかしげながら毎年4月に咲き、既に散っているはずなのですがね、と言っていた。
我々はこれに感動し、英霊が間違いなく待っていてくれたのだと勝手に思い込んだ次第であった。地理的に行けば日本軍はマオサンソン方面からコヒマに到着し此方の高地を占領したのだと思われる、インパール作戦記やコヒマ戦等を読んでも現在のどの位置かは中々判らない。
ウ号作戦によるインド方面戦死者、烈師団は1万1500名、弓師団1万2500名、祭師団1万2300名、内2万名以上のご遺骨が未だご帰還叶わず現地に埋もれている、現在ナガランド州もマニプール州も入域制限も解け比較的治安も安定している、この様な時にいっきに大規模に捜索をしなければ何時遣ると言うのだろうか、日本政府は本気で探す気があるのだろうか、時が経つのを待って有耶無耶にするつもりではなかろうか、日本人全ては考えなければならない「有耶無耶にしたならば日本人ではなくなるのである」現在の日本の繁栄は万斛の想いを胸に秘めて散った英霊の上にあるのです。日本合衆国にでもなればそれは探さなくてもいいでしょう、しかし日本が日本である以上は最後の一体まで探さなければならないと言う事なのである。