【「熊本県白菊会」と「立田山の鎮魂碑」について】
熊本県白菊会とは大東亜戦争の終戦に伴い極東国際軍事裁判(東京裁判)にて所謂、戦犯として処刑されたり、病死された方々の遺族関係者の会です。発会当初は「全国白菊遺族会」として発足されていますが、現在熊本に於いては「熊本県白菊会」として慰霊祭を執り行っております。ご関係者の方、慰霊祭へご参列希望の方はご一報下さい。
事務局 熊本市中央区大江4-4-30
熊本県隊友会内
T E L 096-363-5703
●碑文
大東亜戟争ノ終結ニアタリ戦勝国ニヨル一方的軍事裁判ノ結果 戦犯ノ汚名ヲ受ケ 祖国ノ復興卜世界ノ平和ヲ祈念シナガラ従容死二就カレタノハ本県出身ノミニテモ四十七士二及ンダ
ジライ十有七年 我国ハ繁栄シアジアハ独立シタ ソレコソコレラ丈夫ガ献身卜祈念ノ上二築カレタモノトイワネバナラナイ ココニ英霊ノ偉烈ヲタタエ芳名ヲ録シ 断腸ノ遺族白菊会トトモニ碑ヲ建テ以テ後世二伝エル次第デアル
昭和37年7月
熊本県英霊顕彰会
●場所 熊本市 立田山墓園
特等5号地20ブロック 66平方メートル
●慰霊祭
近年は毎年9月の第1日曜に熊本県護国神社にて昭和殉難者慰霊祭を斎行。
(5年に1度は立田山の鎮魂碑前にて斎行致しております。)
●白菊会熊本県支部と鎮魂碑建設の経緯
【47名のうちのおひとり、中村 鎮雄命のご遺族、
中村達雄氏遺稿「法務死者47人のために」より】
戦後、戦犯者は日陰者的立場に追い込まれ、生活面においても苦労を強いられました。しかし、昭和26年から27年にかけて5回もの国会において国内法では法務死であり、遺家族援護・扶助料などを支給すべきであるとの決議がなされ、昭和30年ごろには恩給などが支給され始めました。特筆すべきは昭和27年12月、国会の社会党堤ツルヨ議員の次の発言です。
「判決を受けて服役中の留守家族は、援護法の適用を受けているのに、早く殺されたり、獄死したがために留守家族で国家補償が受けられない。しかもその英霊は靖国神社の中にさえ入れてもらえていない。当然、処刑・獄死された方々の遺族に援護法が適用されるべきだ」。
当時の国会議員は、左右を問わず戦争裁判や戦犯に対し純粋な日本人の感懐をもっていたと思われます。
熊本においては、私の母俊が発起人的な立場になり、昭和28年以来47人の法務死者の遺族をもって白菊会熊本県支部を設立し、慰霊碑建立を企画しました。33年10月頃から募金を開始し、帳簿によると50円とか100円とかの細かい数字が見受けられます。当時、最年少の本田タネ様の話によると、47人の氏名・住所・遺族名などの収集整理が大変で、県の担当者に日参したとのこと。当時の風潮として戦争犯罪人という悪者扱いに世間も自分も苛まれていたのです。母は第一高等女学校同窓の川辺ミチ熊本市議会議員を相談相手とし、専業主婦が俄かに行政や社会に訴えて、白菊会の取りまとめ、鎮魂碑建立のために走り回りました。
幸いにして昭和35年5月に熊本県知事寺本広作氏のご好意を得て、県援護課を通じ20万円を、同5月熊本市長坂口主税氏から社会課を通じ10万円の寄贈を受けました。さらに立田山霊園の永代使用を許可され、自衛隊第八師団のご協力をいただき、地元石工・西本芳人氏の献身的奉仕により昭和37年に鎮魂碑が建立され、同38年3月、慰霊除幕式を開催することができました。鎮魂の碑名は陸軍大将・荒木貞夫氏の揮毫によるものであり、除幕式には荒木大将、熊本県知事、熊本市長をはじめ遺族約30人が参列し盛大に実施されました。
その時、母は白菊会代表として次の挨拶を申し上げました。
【白菊会代表挨拶文(下書き原稿)】
本日は熊本県戦犯留守家族会の方々のお思い立ちで県や市やその他の皆様の御親切によりまして、刑死者の為に慰霊祭をお催し頂きまして、誠にありがとうございます。遺族一同にかわりまして深く感謝申し上げます。私共の主人や子供は終戦後、戦争犯罪人という名のもとに捕らわれの身となり、裁判の結果は遂に死刑となりました。それは聞くも恐ろしい銃殺刑とか絞首刑とかでした。一体戦犯とは何ものでございましょう。理不尽なる裁判、不当なる宣告、しかも硝煙遠く散じはてたる御代に文明の仮面をかぶった大殺戮。之を非人道と言わずして何でございましょうか。冤罪に怨憤の血涙を呑み、鉄鎖に残虐の限りを忍びながらも従容として只ひたすらに君を思い祖国を偲びて七生報国を誓い悠久の大義に生きんとされました。その精忠は玉砕に劣るものでしょうか。
思えば、敗戦の犠牲とは申せ私共の悲しみと無念さは、実に言葉では申しきれません。昼は老人子供をかかえての生活苦にせめられ、夜は幾夜フトンの衿をかんで泣き明したことでしょう。然し遺族としましては、石にかじりついても生活と子女の教育を完うして父や兄の意志をつがせねばならぬと心を強く持ち直しまして、それこそ艱難辛苦の6年間、やっと今日まで生きのびてまいりました。
講和も発効し独立国日本となりまして、心ある方々のお情によりまして、風香る今日、普賢寺の御堂に色とりどりの美しい花を飾られ、有りがたい読経の声に招かれました英霊は、日本再建の礎の一部になられた刑死者の霊を慰めて頂きまして、さぞや喜んで居られますこと、万感胸にせまるものがございます。
御霊よ、あなた方の死も決してムダではございませんでした。今こそ何卒快く御冥福下さいませ。私共もイバラの道を踏み越え踏み越え生活にいそしみます。
今日のお催しは遺族にとりましても無上のなぐさめでございました。主催の方々来賓の方々に謹んでお礼を申し上げます。
最後に、願わくば国民の皆様が戦犯の真相を諒解され、尊き犠牲に対する正当なる御理解を持たれ、やがて後世に正しい批判の下さるる日が早くまいりますことを願います。
中村 俊
私は鎮魂碑建立の経緯を知るに及び、当時の世相の中で、遺家族の方々が生活苦と世間の険しい目の中で懸命に走り回り、自分たちの手で鎮魂碑建立慰霊除幕式開催までこぎつけた努力に深い深い感動を覚えました。そこには、日本国を信じ、父を夫を兄を信ずる家族の杵と、それに感激感動した行政・隣人等の日本人の意識が働いていたと感謝します。
一部には何でも批判する勢力がありますが、逆に無言で慰霊・清掃などを奉仕してくださる個人・団体なども多数おられます。日本人の本当の真心に触れることも多いです。私は母が白菊会の中心的立場でよくぞここまでやってくれたと感謝し、尊敬の念を新たにするものです。母は身体も左程強い方ではなく、社会的事情にも疎かったはずなのに、除幕式では心のこもった挨拶を申し述べており、一層その感を深くします。
鎮魂碑建設当時、私は仕事の都合で東京に在住しており、何の手伝いもできなかったことを悔やんでいます。昭和55年、定年帰熊後は当時の事務局長本田タネ様から引き継いで、母たちが皆で建立した慰霊碑を守り、子や孫に伝えて父をはじめ先人47士の遺訓を讃え四季折々の祭祀を務める覚悟でいます。母が昭和54年に死去し、白菊会代表不在となったころ、熊本市から責任者不明・祭祀不明の場合は鎮魂碑用地の更地返還を求めるとの無情な通告があり、本田タネ様が大変ご苦労され、存続への涙ぐましいお話を伺いました。時代によって、人によって行政は180度変わることを知りました。
上記写真は昭和34年、皇居にて拝謁の写真。手前より二番目は中村俊初代熊本県白菊会会長。
上記写真は立田山の鎮魂碑での慰霊祭
上記写真は護国神社での慰霊祭
上記写真は平成20年10月27日の熊本日日新聞記事。